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2024.3.31 主日礼拝(イースター)  ■聖書 ルカ24:13-27 ■説教題「心燃やされるイースター」

(序)

 今年もイースターを迎えましたが、ディズニーランドや、大阪のUSJではこの時期イースターのイベントがあるそうです。USJのホームページを見てみると、「ユニバーサル・イースター・セレブレーション」「究極ハッピーで底抜けにかわいい、イースターの祭典へようこそ!」いったい何事だろういう感じですが、楽しく賑やかにやっているみたいです。今の若い子たちは、イースターといえばUSJだと思っているのではないでしょうか。イースターは教会のものですから、誰より私たち教会が、喜び、祝いたいと思います。

 ただ、今から2,000年前に起こったイースターは、喜びよりも戸惑いや疑いから始まったのをご存知でしょうか。イースターは、十字架で死なれたイエス様が墓の中からよみがえられた出来事ですが、最初に駆けつけた女性たちや弟子たちも、すぐには信じられませんでした。今朝の箇所に登場する二人の弟子たちも、やはり最初は戸惑いと疑いの中にいました。 

 今日もイースターについて、色んな人が色んな考えを持っているでしょう。イースターの意味や、その喜びをすでに分かっているという方もいれば、まだよくわからない、信じられないという方もいるかもしれません。それはそれでもっともなことかもしれません。イエス様の弟子たちだってそうだったのですから。しかし、今日の箇所を通して、弟子たちに起こった変化を知っていただきたいと思います。そして、同じような変化は私たちにも起こるものであるということをともに覚えたいと思います。

 

(本論)

1、近づき、ともに歩くイエス

 13-16節「ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」

 イエス様がよみがえったその日、墓が空っぽになっていて女性たちが驚いたその日のこと(1-12)、二人の弟子がエルサレムから六十スタディオン(11km)離れたエマオの村に向かっていました。話し合ったり論じ合ったりしていたというのは、やはり、墓が空っぽになったそのなぞについてでしょう。また、17節には、二人は暗い顔をしていたとありますので、イエス様が死なれたことにとてもがっかりして、悲しみと失望のうちにエルサレムの町を離れようとしていたのでしょう。しかし、そこへなんと、よみがえったイエス様ご自身が近づい来て、この二人の弟子と一緒に歩き始められたということです。

 となれば、この二人の弟子は無茶苦茶驚いた、また喜んだと思うのですが、そうではありませんでした。「二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった」(16)。二人がイエス様だとわからなかったのは、イエス様の外見が変わったからというよりも、彼ら自身の目がさえぎられていたためだと書かれています。目がさえぎられていた。つまり、復活のイエス様に対する彼らの信仰の目、心の目がまだ開かれていないということです。だから、イエス様がすぐそばにても分からなかったのです。

 

 そして、17,18節「イエスは彼らに言われた。『歩きながら語り合っているその話は何のことですか。』すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。『エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。』」

 「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」もちろん、イエス様は何のことか分かっていますから、あえて彼らに尋ねたということです。するとクレオパは「エルサレムに滞在していながら、‥あなただけがご存じないのですか」と驚き、呆れすます。(それにしても、張本人であるイエス様に対し「あなただけがご存知ないのですか」は滑稽な話です。)イエス様はさらに「どんなことですか」と尋ます(19)。すると二人は19節からあるように、自分たちが見聞きしてきたことをありのまま説明します。

 彼らも他の弟子たち同様に、イエス様を尊敬し、期待を抱いていたが、祭司長たちが中心となってそのお方を引き渡し、十字架につけてしまった。ところが、それから三日目となる今日の朝、女性たちが墓に行くとイエス様のからだは消えていた。さらに、女性たちは御使いたちの幻を見、イエス様は生きておられると御告げを聞いたと言う。

 しかし、二人の弟子は事態を飲み込めていませんでした。イエス様の十字架の本当の意味もわかっていませんし、復活についても半信半疑です。

 今日も同じではないでしょうか。イエス様の十字架と復活について、二人の弟子と同じように、いまいちわからなかったり、半信半疑という人もいるでしょう。

 ただ、私たちがイエス様の死と復活の真実を知りたいと願い求めるなら、この箇所のように、イエス様は私たちのもとに近づいて来てくださるということです。そして、同じ歩幅で歩きながら、私たちの理解に応じて、ふさわしい導きを与えてくださいます。

 ある人がこの箇所を読んで「イエス様はカウンセラーだ」と言っていましたが、たしかにそうだと思います。イエス様は一方的に語られるのではなく、相手の考えに耳を傾けられます。そのため、イエス様と向き合う人は、自分の考えやこれまでの経験と改めて向き合うようになります。そこで、自分の考えが整理されたり、何がわかっていて、何がわかっていないのか、それも見えてきます。

 

2、開かれる聖書

 さて、二人の弟子が語り終えると、今度はイエス様が語られました。ここから、具体的な導きが始まります。25-27節「そこでイエスは彼らに言われた。『ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。』それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。 」

 イエス様は、彼らの心の鈍さが問題だと言われました。さらに具体的には、聖書で教えられていることを、二人が理解していないことが問題なのだと。聖書も、預言者たちも、明確に語っていたけれども、彼らにはそれが何を意味しているのか分かっていなかったということです。

 イエス様の苦しみは、聖書の預言書に記されていたので起こらなければなりませんでした。それからイエス様は「栄光に入る」のです。死や悪に打ち負かされていません。苦難をとおして勝利するのです。

 そして、イエス様は、「ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに解き明かされた。」どんな解き明かしをなさったのか。興味深いですね。モーセとありますから、最初の創世記や出エジプト記から始まったのですかね(例:原福音、アブラハム契約、奴隷からの解放)。また、十字架に関する預言といえば、やはり、イザヤ書53章が思い出されます。同時に、旧約聖書全体がイエス様の十字架と復活に向かって進んでいたと言えますから、旧約聖書全体に貫かれている、父なる神の目的、計画について、解き明かされたということでしょう。

 旧約聖書とイエス様との繋がりを知ることは驚きと発見に満ちています。鳥肌ものです。イエス様の十字架と復活を頂点とした神様の壮大な計画、壮大なみわざに圧倒されて鳥肌が立つほどです。最近、ユーチューブなどで漫画やアニメの考察動画が流行っているみたいですけど、聖書はまさに、創世記から黙示録まで壮大な伏線回収がなされていくわけです(例:いのちの木、イサクとイエス、出エジプトと救い、イエスの初臨と再臨、等々)。しかも、これはフィクションではなく現実の出来事なのです。

 

3、開かれる目、燃やされる心 

 さて、聖書の解き明かしを聞いていた二人の心には変化が生じていました。彼らの心はその話に惹きつけられていました。イエス様は「もっと先まで行きそうな様子」でしたが、二人が強く勧めたので一緒に泊まることになりました。

 すると、不思議なことが起こります。一緒に食卓につき、イエス様がパンを裂いて二人に渡すと、なんとそこで彼らの目が開かれ、目の前にいる方が復活のイエス様だと分かったのです。同時にイエス様の姿は見えなくなりました。

 パン裂きといえば、聖餐式が思い出されますが、ただ、パンを食べたわけではありませんし、ぶどう酒もありませんので、聖餐式とは関係がないかもしれません。あるいは、イエス様の手にある釘の痕をここで初め見たのかもしれません。あるいは、これがちょうど神様の時だったのでしょう。

 ここでまず重要なことは、「彼らの目が開かれ」た。とくに、受け身で書かれていることです。目とは心の目、信仰の目。そして、それはあくまでも、イエス様の働きかけによって「開かれる」ものなのです。

 同時に、信仰の目はイエス様との交わりと聖書のみことばによって開かれるということです。この一連の出来事は、信仰の目はイエス様との交わりと聖書によって開かれるということを表しているのです。もちろん、聖書が大事なのですが、同時に、イエス様のお働きがなければ、信仰の目は開かれません。逆を言えば、聖書のみことばがあり、求める心があるならば、イエス様が働かれ、導きを与えてくださり、信仰の目は開かれるということです。

 そして、弟子たちはイエス様との交わりを振り返ってこう語るのです。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

 ここまで一緒に歩いて、聖書を解き明かしてくださったのも復活のイエス様だった。その解き明かしは十字架と復活の真実を明らかにし、私たちの心は燃やされた。イエス様の臨在とみことばによって、もはや暗い顔つきは消え去り、彼らの心は内に燃えていました。

 

(結び)

 よみがえりのイエス様は、今日も生きておられます。目には見えなくても、私たちのそばにおられ、親しい交わりのうちに、また聖書のみことばを通して、十字架と復活の真実、その恵みを教えてくださいます。イエス様の十字架は私たち罪人の身代わりとての死であり、復活はイエスご自身とともに、私たちもまた新しいいのちに生まれ変わるということ。

 それはまた、罪ある者たちを何としてでも救おうとなさる、神様の深い愛と熱心を覚えることでもあります。また、永遠のいのちの希望を覚えることでもあります。ですから、聖書を知ることは神様を知ることですが、同時に、自分自身を見出すことなのです。罪赦される平安、救われる喜び、神様に愛される喜びを知るからです。人生の意味や喜びを獲得することだからです。だから、心は感動し、燃やされるのです。

 

 先週、東京で行われた教団総会に出かけてきました。N教会のN・Y先生と一緒に書記の奉仕をしました。先生は牧師になる前、ある有名な外資系の銀行で働いていたそうです。それがどうして牧師になったのかというと、イエス様の十字架と復活を頂点とする聖書の壮大さを知ったからだということでした。創世記から黙示録まで貫かれている神の愛。壮大なご計画とみわざ。それに圧倒された、と。もっと聖書の勉強がしたくなってイギリスに留学し、牧師になった、と。心が燃やされたわけです。お給料は前の職場よりもだいぶ少なくなったと思いますけど、今牧師をしていて充実していると仰っていました。みことばによって、心が燃やされているわけです。

 私たちがイースターの意味を、その恵み、喜びを知ろうと願い求めるなら、イエス様は近くにおられますから、聖書のみことばの真理と、親しい交わりのうちに、私たちの目を開いてくださるのです。また、その真理によって、私たちの心を燃やしてくださるのです。

 

2024.2.18 主日礼拝  ■聖書 Ⅰサムエル29:1-11 ■説教題「主は生きておられる」

 

(序)

 今日もご一緒に礼拝ができますことを感謝いたします。今朝はⅠサムエル29章から、「主は生きておられる」という題でみことばを取り次いで参ります。  

 

(本論)

1、板挟みの苦しみ

 27章で見たように、サウルから命を狙われていたダビデは、悩んだ末にイスラエルを離れてペリシテ人の地へ逃亡するという決断をしました(27:1)。

 イスラエルとペリシテは敵対関係にありますから、普通入って行くことはできませんが、ダビデはペリシテの王アキシュに対し、自分たちはサウルと対立する反乱軍だと信じ込ませ、亡命に成功します。さらには、アキシュの好意を得て、ツィクラグの土地まで与えられたのでした(27:5)。

 しかし、そこから、アキシュをだまし続ける苦しい日々が始まりました。実際のところ、ダビデは、反乱軍でもなければサウル暗殺を狙っているわけでもありません。身を守るため仕方なく逃れて来たにすぎません。でも、それを悟られるわけにはいきませんので、ダビデは南の方にある町や村を襲って略奪をし、さもイスラエルの町や村を襲って来たかのように見せかけていました。そうしてアキシュをだまし続け、信用を得ていきました(27:8-12)。

 

 しかし、この29章でついに恐れていた事態が起こったのです。1,2節「ペリシテ人は全軍をアフェクに集結し、イスラエル人はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いた。ペリシテ人の領主たちは、百人隊、千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュと一緒にその後に続いた。」

 ペリシテとイスラエルの間で、再び戦争が始まろうとしていました。ペリシテの連合軍がイスラエルに向け進軍を開始しました。そこでダビデも、ペリシテ軍の一員としてイスラエルと戦うようアキシュから要請を受けたのです。

 拒否することはできません。拒否すれば今までの信用が失われます。かといって、サウル、ヨナタン、イスラエル軍と戦うわけにもいきません。ダビデは窮地に陥ります。

 嘘をつけばやがて自分の首を絞めることになります。もちろん、ダビデの場合は止むを得ない事情がありましたが、嘘をつけば自分の首を絞めることになるというのは一つの真理です。そういう意味でも、自分のことば、振る舞いについて、嘘がないこと、誠実であることを日々心がけていきたいと思います。

 

 また、ダビデはペリシテ軍と一緒に戦うことを求められたわけですが、ただ身を寄せるだけならまだしも、深い協力を求められるとなれば、ペリシテ人は手を組むべき相手ではありません。

目的も利害も異なる相手だからです。

 ところで、Ⅱコリント6:14に、「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません」というみことばがあります。つまり、心を合わせて働く共同の事業とか、本当に深い交わりを、クリスチャンがクリスチャンでない方と共に行うのは無理であり、危険であり、ふさわしくないという、パウロの勧告です。

 たとえば、能登ヘルプの働きも、教会だけでなく、一般企業、NPO法人、いろんな方々と協力をしますが、世話人会、リーダー、あるいは組織としての意思決定は、クリスチャンが担わなければなりません。神のみわざが実現し、キリストの愛が届けられるためです。

 

2、深い信頼

 さて、窮地に追い込まれたダビデですが、しかし、思いがけないところから、これを打開する

機会がやって来たのです。3-5節「ペリシテ人の首長たちは言った。『このヘブル人たちは、いったい何なのですか。』アキシュはペリシテ人の首長たちに言った。『確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいる。私のところに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。』ペリシテ人の首長たちはアキシュに対して腹を立てた。ペリシテ人の首長たちは彼に言った。『この男を帰らせてほしい。あなたが指定した場所に帰し、私たちと一緒に戦いに行かせないでほしい。戦いの最中に、われわれに敵対する者となってはいけない。この男は、どのようにして自分の主君の好意を得るだろうか。ここにいる人たちの首を使わないだろうか。この男は、皆が踊りながら、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌っていたダビデではないか。』」

   ペリシテ人の首長たちは、隊列の後にダビデとその兵士たちがいるのを見て、「このヘブル人たちは、いったい何なのですか」と不満を覚えました。 それが「イスラエルの王サウルの家来ダビデ」だと聞いて首長たちはさらに苛立ちを覚えます。アキシュはダビデを信用し何の疑いも抱きませんでしたが、他の首長たちには受け入れられません。理由は単純です。ダビデはあくまでもイスラエル人であり信用できない。戦いの最中、いつ裏切るかもわからない。14:21にあったように、ペリシテ軍はすでに苦い経験をしていました。そしてダビデといえば、かつてペリシテ軍に手痛い敗北をもたらし、歌にまでなった、サウル以上の優れた将軍。そんな者を連れて行くなど危険極まりない、と。

 一方アキシュはダビデを擁護しています。「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいる。私のところに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。」

 深い信頼を寄せていることがわかります。アキシュは、首長たちのことばに反発するほど、ダビデを信頼しています。しかし、首長たちの抗議も、もっともといえばもっともであるし、亀裂が生じるのも得策ではない。

 そこでアキシュは、6,7節のとおり、ダビデに理解してくれるよう説得します。「主は生きておられる。あなたは真っ直ぐな人だ。あなたには陣営で、私と行動をともにしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、あなたには何の悪いところも見つけなかったからだ。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。だから今、穏やかに帰ってくれ。ペリシテ人の領主たちが気に入らないことはしないでくれ。」

 アキシュにすれば、ダビデに対しわびる思いがあったでしょうが、ダビデにすれば心底ほっとし胸をなで下ろす思いだったでしょう。

 

 ところで、アキシュは「主は生きておられる」と、意外なことにイスラエルの神を持ち出しています。ただ、これはアキシュがイスラエルの神を信じていたというわけではなく、ダビデに対する一つの礼儀として述べたものと思われます。

 とはいえ、「あなたは真っ直ぐな人だ」、さらに9節「私は、あなたが神の使いのように正しいということをよく知っている」、これらの言葉にあらわれているように、アキシュがダビデを最大限評価し、深い信頼を寄せていたことは間違いありません。

 実際は、ダビデはアキシュを騙していたわけですから、嘘によって作られた関係であることは否めません。ただ、ダビデは、確かに誠実な人間です。止むを得ず嘘をついたこと以外は、アキシュに対して本当に誠実だったのでしょう。いのちをねらわれながらも、あのサウルに忠誠を誓うダビデの誠実さは、アキシュとの交流においても発揮されていたのでしょう。

 またアキシュは、ダビデの誠実さはダビデの信じる神にかかわりがあると感じていようですう。私たちの歩みも、周囲からそう思われるものでありたいと願います。

 

3、生ける神の見えざる手

 8-11節「ダビデはアキシュに言った。『私が何をしたというのですか。あなたに仕えた日から今日まで、しもべに何か過ちでも見出されたのですか。わが君、王様の敵と戦うために私が出陣できないとは。』アキシュはダビデに答えて言った。『私は、あなたが神の使いのように正しいということをよく知っている。だが、ペリシテ人の首長たちが「彼はわれわれと一緒に戦いに行ってはならない」と言ったのだ。さあ、一緒に来た自分の主君の家来たちと、明日の朝早く起きなさい。朝早く、明るくなり次第出発しなさい。』ダビデとその部下は、翌朝早く、ペリシテ人の地へ帰って行った。ペリシテ人はイズレエルへ上って行った。」

 ダビデは役者ですね。信用されないのも、出陣できないのも、納得できない、と。あんまりやりすぎると、「やっぱり出陣してもらおうか」となってしまいますから、さじ加減は難しいところです。

 それはそうと、ダビデとその家来たちは、最終的にアキシュの指示によって、ツィクラグヘと帰ることになりました。

 

 神様はあわれみ深い方です。29章には神様の働きがあったとはっきり書かれているわけではありませんが、神様はペリシテの首長たちの疑い、不満を用いて、ダビデがサウルやイスラエル軍と戦う必要がないように守られたのです。また、次の章を先取りすると、実はこの時、アマレク人によってツィクラグが襲われ、ダビデや家来の妻たち、子どもたちが連れ去られていたのです。もし、このまま戦いに上っていたら、妻や子どもたちを救出することは出来なかったでしょう。

 アキシュは「主は生きておられる」と言いました。それは、ダビデに対する一つの礼儀として述べた言葉かもしれませんが、しかし、文字通り「主は生きて」おられるのです。この出来事の背後にあって、生ける神の見えざる手が働かれダビデを守られました。

 

(結び)

 ダビデはかつて、このペリシテの地を「神の御顔から離れた地」と呼んだことがありました。けれど、神はダビデを離れずともにおられました。そこがどのような場所でも、どんな窮地に追い込まれたとしても、神の守りの御手が届かぬ場所はない。打開する道は与えられる。ダビデはあらためてそれを知ったのです。

   ダビデは嘘もついていましたが、たとえ自分の弱さ、失敗、罪があったとしても、神様のあわれみは決して閉ざされることはありません。もちろん罪をよしとすることはできませんが、しかし、神様は、赦しの神、あわれみの神、助けの神であられます。

 これまで、どのように神様に守られて来たでしょうか。八方塞がりの中で、ある人、ある出来事によって、それを打開できたということがあるのではないでしょうか。背後で、神さまの御手が働いておられたのです。

 毎晩、その日の出来事を振り返り、神様の守りを覚えることもできるでしょう。「夕べの祈り」というとカトリックの印象が強いですが、私たちにとってもためになるものです。

 「天の父よ、わたしたちは御守りと御恵みのうちに今日一日を過ごすことができたこと感謝いたします。私たちを支えてくれた人たちに神様の恵みがありますように。」

 そうして、神様の守りを覚える。それはまた神様の愛を覚えることでもあります。そして、私たちも神様を愛し、また新しい日にも期待を持って歩みだすことができるのです。 

 

2024.1.7 主日礼拝  ■聖書 ルカ10:25-37 ■説教題「隣人となる」

(序)

 今日は予定を変更し、ルカの福音書10章を開きました。「良きサマリア人のたとえ」と呼ばれている箇所です。この箇所における一つのテーマは、「隣人を愛する」ことです。今まさに、私たちの身近な地域、身近な人々が震災によって傷み、支援を必要としています。この状況の中で、私たち教会はどう在るべきなのでしょう。

 

(本論)

1、良きサマリア人のたとえ

 まずは25節。ある律法の専門家がイエスさまを試そうとして、永遠のいのちに関する質問をいたします。これがきっかけとなり、「隣人を愛する」というテーマへと話が進んで参ります。とくに、自分が愛するべき隣人とは誰なのか。隣の家に住んでいる人?いや、それ以上のことであるというのはわかっている。でも、どの範囲まで愛するべきなのか。これについては、ユダヤ人の間でも考え方に違いがありました。イエスさまは「良きサマリア人」のたとえを語り、愛すべき隣人とは誰のことであるか示して行かれます。

 

2、隣人となる

 30-33節。ある人がエルサレムからエリコへと下って行ったが、その道中、強盗に襲われ、瀕死の状態になってしまった。するとそこへ、たまたま、祭司が一人通りかかった。しかしその祭司は倒れた人を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じように、後から来たレビ人も、反対側を通り過ぎて行った。

 祭司とは、神さまに仕える者、礼拝を司る者。民を教えたり、指導する立場です。レビ人も、祭司と一緒に奉仕する者たちです。しかし、そのような彼らが、倒れた人を助けることなく、通り過ぎて行った。理由は書かれていませんが、儀式的な汚れを負いたくなかったのかもしれません。あるいは、強盗が戻って来るかもしれないと考えたのかもしれません。いずれにしても、苦しんで、助けを必要としている人がいたのに、祭司、レビ人はその人を置き去りにしました。

 

 しかし、33節からあるように、後からその道を通ったサマリア人は、瀕死の状態で倒れていたその人をあわれみ、助けの手を伸べます。33,34節「ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。」

 先ほどの祭司、レビ人とは対象的に、このサマリア人は、その人を見て「かわいそう」に思い、近寄って助けます。「かわいそうに思う」、何よりその心が愛のわざの動機となりました。

 そして36節のイエスさまの言葉をご覧ください。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」隣人とは、ただ隣の家に住む人とか、同じユダヤ民族とか、そういうことで線引きされるものではない。自分から、助けを必要としている人の隣人となっていく。自ら、隣人になっていくということです。

 この度の震災によって、痛み、傷ついている方々が、能登地方、石川県、この北陸の地におられます。私たち教会は、その方々の隣人とならせていただきたい。まず、そのような祈りをささげたいと思います。

 私たちのうちにも、「かわいそうに思う」あわれみの心があります。しかし、私たちのあわれみと愛は、不完全であることも事実です。一時的であったり、見返りを求めたり。ですから、イエスさまのようなあわれみの心を私たちにも与えてください。これらの祈りをささげていきたいと思います。

 

3、愛と犠牲の奉仕

 続いて、サマリア人の愛のわざに注目してみましょう。もう一度34節、続けて35節もお読みします。「そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」

 「オリーブ油」は痛み止め、「ぶどう酒」は消毒薬。このサマリア人は旅行者として、これらを携えていたのでしょう。「家畜」はろばからくだと思われますが、それに倒れた人を乗せ、自分は歩いて進みました。そうして宿屋に連れて行き、自ら介抱します。

 そして次の日、彼は二日分の給料に相当するデナリ二枚を宿屋の主人に支払います。宿泊費としては高額ですが、「介抱してあげてください」とあるように、宿屋の主人に介抱を頼むため、多く支払ったのでしょう。さらに、「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」。もっと多くの費用をかかったならば、自分が帰りに返済するとサマリア人は約束しました。最低限の助けというのではなく、犠牲を払いつつ、さらに残りの治療も考えながら、出来る限りのことをしました。

 

 今、私たちが置かれている状況は、このサマリア人と全く同じではありません。怪我人や被災した方が、すぐ目の前にいるわけではありませんし、規模も違います。ですが、この人のあり方に倣って、私たちに求められる愛と犠牲の奉仕をささげたいと思わされます。

 まず、教会は祈ること。祈り続けることが大事でしょう。そして、怪我人や病人の救援は国や県が主導して行なっていますので、それらの支援がスムーズになされるため、出された指示に従い、協力をすることが必要でしょう。

 

 また、被災した方々の必要を知り、今できることを精一杯させていただけたらと思います。この後、報告の時に改めてお話しますが、一昨日の金曜日、内灘聖書教会で緊急の牧師会が開かれ、「のとヘルプ」(仮称)という超教派の支援団体を立ち上げることとなりました。献金の受付を開始することが決まっています。また、昨日同盟教団からも緊急支援募金を募るとの連絡がありました。まず、これらの団体を覚え、献げることが、具体的な支援に繋がって行くでしょう。サマリア人もそうでしたが、やはり治療や支援のためには資金が必要です。

 

 同時に、支援活動そのものは間違いなく長期的なものになります。被災者や被災地のニーズも段階とともに変わって行きますので、それも念頭に置く必要があるでしょう。

 

 また、良きサマリア人の行動を改めて見てみると、彼も自分一人ですべてを行なったわけではありませんでした。宿屋の主人にも介抱を依頼しました。私たち一人ひとりも、牧師も、教会としても、単独で抱え込むのではなく、役割や負担を分担することが大切でしょう。活動が長期的になれば、なおさらです。

 

 そして、このサマリア人は、「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」と、最低限の助けではなく、残りの治療も考えながら、できる限りの関わりをしました。あの東日本大震災のとき、三年を一つの区切りとして、多くの企業や団体が被災地支援から撤退していったそうです。しかしキリスト教会やその団体の中には、三年過ぎた後も活動を継続した働きがいくつもあった。被災者の方々から、「教会さんは留まってくれた」そんな声も上がっていたと聞きます。尊いわざであると思いますし、何より神さまの愛のわざです。そのような、支援を必要としている方々に寄り添い続けるような関わりを、もちろん私たちの力だけでは不可能ですが、北陸の地域教会、また教団などと協力して、何より、神さまの愛と力、御助けに依り頼みながら、おこなっていくことができたらと願います。

 

(結び)

 イエスさまは、「良きサマリア人」のたとえを通して、だれが「隣人になった」だろうか。そう問われました。お祈りをいたしましょう。

 

 

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