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2024.10.6 主日礼拝  ■聖書 ヨハネの黙示録 2:1-7 ■説教題「初めの愛」

(序)

 1章では序文に続き主イエスの栄光の幻が示されましたが、2-3章では「7つの教会」へのメッセージが送られます。1世紀末、小アジア(*現在のトルコ西部)に存在していた、エペソ(2:1)、スミルナ(8)、ペルガモン(12)など「7つの教会」に宛てたメッセージです。

 それぞれの教会で起こっていたさまざまな問題の解決のために、ヨハネはそれを書き送ります。黙示録の幻は、何よりもまず当時の教会を励ますためのものです。手紙は回覧され、さらに周辺の教会へと伝えられていったのでしょう。

 

(本論)

1、エペソの教会に対する称賛「あなたの労苦と忍耐を知っている」

 まずはエペソの教会にメッセージが送られます。1節「エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる──。」

 「七つの星」とは7つの教会の御使いたち、「七つの金の燭台」は7つの教会、その間を歩く方は主イエス・キリストです。キリストは教会の主であり、地上の教会のただ中に臨在し、その間を歩いておられます。それぞれの教会の状況について深い関心を持ち、心を配っておられます。

 

 その方が、エペソのキリスト者たちにまずこう言われます。「わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。」

 これはほかの教会へのメッセージにも出てくる内容です(参照2:9,13,19)。地上の教会は困難な問題に直面し苦しみます。しかしその労苦(*痛みを伴う働き)、戦いの一切をキリストは「知って」おられるということです。

 地上における労苦が主に知られていることこそ、神の民にとっての励ましです。

 「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ6:4)。

 

 また、続けてこう言われます。2節「‥あなたが悪者たちに我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。」

 エペソの教会は「悪者たち」、とくに「偽(にせ)使徒」との戦いを経験しました。「偽使徒」との戦いについては、パウロもコリント書でふれていますが(Ⅱコリント11:13-15)、⑴それは誤まった教えを語り、教会に混乱や亀裂を招く者たちです。⑵また当時のローマ皇帝のように、明らかに教会を破壊しようとしている外側からの敵ではなく、内側から生じる敵です。⑶このような欺きの大本にある力とは12章で登場するサタンであり、その手下である「地から上がってくる獣」(13章後半)、すなわち「偽預言者」です。⑷かつてパウロは、エペソの教会に「群れを荒らし回る凶暴な狼が現れる」と語っていました(使徒20:29-30)。それが成就したということがわかります。

 エペソの人々はその警告も心に留めていたのでしょう。そして正義に燃える人々で、悪者たちに我慢できず、実際に現れた偽使徒たちを鋭い洞察力をもって試し、その偽りを見抜きました。本物の使徒たちから教えられてきた主の教えによって見抜くことが出来たということでしょう。しかも、主のために耐え忍び、疲れ果てなかった、と。

 ところで今日も、偽りの教えを語る異端のグループが教会に忍び込んで教会を荒らすという事例が起こっています。私の知り合いの牧師も、コロナ禍に信徒が引き込まれ、大変な痛みを経験しました。真理を守る戦いがあることを覚え、みことばに立ちながら、最後まで戦い抜くということです。

 さて、このように、エペソの教会にまずは称賛が与えられました。

 

2、問題点~「初めの愛から離れてしまった」

 しかし、称賛に続いて問題点が指摘されます。4節「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」「あなたは初めの愛から離れてしまった」。一度聞いたら、忘れることのできないような言葉です。

 主イエスに対する愛なのか、互いに対する愛なのか、もっと広い意味での愛なのか、はっきりとは書かれてはいません。ただ、健全な信仰である限り「イエス様への愛は十分持っているのに、人に対する愛は大きく欠けている」という偏りは起こりませんから、やはり、神に対する愛も、人に対する愛も、失いかけていたということでしょう。

 パウロも証しているように、エペソの教会はもともと主への信仰と兄弟愛にあふれた教会だったのです。「主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒たちに対する愛を聞いている」(エペソ1:15)。「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた」(同3:17)。

 

 では、どうして「初めの愛」から離れてしまったのでしょう。エペソの教会は偽使徒と戦い、欺く者を見抜き、真理と偽り、正しさと誤りを鋭く見分けていました。しかしその結果、クリスチャン同士が、互いの欠点に敏感になっったり、厳しく批判し合ったり、互いの愛が冷えていきました。健全な教えを厳しく強調する中で、それが守られないと強い調子で責めたり、赦すことも蔑ろになり、愛を失っていきました。罪人を赦す神の豊かな愛も見失われていたのでしょう。

 たとえば、政治の世界における右派と左派の対立、あるいは家庭や職場の人間関係、友人との関係でも、同じような対立の構図はよく見られます。

 そして、「教会だから安心」ということはないのです。エペソの教会のように、神の義を追い求める私たち教会も、正しさを強調する中で誘惑に陥り、争いや対立、分裂を招いてしまう。愛から離れるという危険が大いにあるといことです。義を追い求めなければなりませんが、決して愛を失ってはならないのです。 

 正しさを追求する一方、愛とあわれみを大きく欠いた人々といえば、聖書では律法学者やパリサイ人でしょう。

 ⑴ 彼らは律法に違反する者たちを厳しく非難しました。⑵自分が神であるかのように人をさばきました。⑶自分の罪や非については認めようとしませんでした。⑷違反した者を切り捨てるばかりで、助けの手を貸そうとはしませんでした。⑸人々も彼らを恐れ、また嫌厭して、近づこうとはしませんでした。

 一方、愛と義に満ちておられる主イエスは、律法学者たちがただ罪人を非難するのに対し、人々に悔い改めを説き、赦しの恵みを与えられました。また罪を繰り返すことがあっても切り捨てることはなく、むしろ変わっていけるように助けの手を伸ばされます。そして人々は律法学者に近づこうとはしませんが、イエス様のもとには安心して近づき、交わりを楽むことができました。愛に満ちておられるからです。

 

 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(Ⅰコリント13:4-8)

 「愛がないなら私は無に等しいのです。…愛がなければ、何の役にも立ちません」(同13:2,3) 

 エペソの人々は、正しさを追い求める一方で、愛から離れてしまいました。しかしこのコリント書にもあるように、愛がなくてはすべては無に等しいのです。

 

3、悔い改めと勝利

 5節「だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。」

 「初めの愛」「初めの行い」を回復するためには、その初めの日々と、どこから滑り落ちていったかを思い出すことです。そして「悔い改める」ことです。つまり、きっぱりと方向転換をし、そこでまず、キリストの赦しと愛に満たされなければなりません。そこへ帰るからこそ「初めの愛」「初めの行い」を回復することができるということです。

 しかしそうしないなら、キリストが来てさばかれます。さばきによって「燭台」はその場所から取り除かれます。「燭台」とは教会です。教会を「その場所から取り除く」というのは、今あるエペソの教会はなくなってしまう、という意味でしょう。悔い改めることをせず、愛のない道をたどっていくなら教会はなくなってしまうということです。燭台として、「光」を灯すことができないからです。

 ただ、この厳しさは、主がどれほど愛を尊んでいるかを表しているのです。私たちは愛を失っていると示されるなら、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改め、初めの行いを回復しなければなりません。

 

 そして、エペソ教会へのメッセージは、勝利を得る者への約束で閉じられています。

 すでにキリストは十字架と復活によって勝利しておられますが、やがて再臨によって完全に勝利され、教会はそのキリストの勝利にあずかります。

 エペソの教会は真理のために厳しい戦いをしていましたが、やがて困難な戦いから解放され、神の臨在するパラダイスで永遠に憩うことができます。主イエスは十字架で悔い改めた犯罪人に、「今日あなたはわたしとともにパラダイスにいます」と約束されました。

 「神のパラダイス」(エゼキエル31:8)にはもはや偽りはなく、エデンの園のように神の平和と喜びが満ちるのです。エデンの園の「いのちの木」に近づくことは禁じられていましたが、キリストの死と復活によって道が開かれ、勝利する者はその実を食べることができます(黙22:2)。

 

(結び)

 私たち教会は、この地上にあって真理を守る戦いがあります。愛から離れる弱さ、愚かさを抱えています。

 しかし主イエスは、今日も私たち教会とともにおられる、いやそのただ中におられて、ともに進んでおられます。戦いに勝たせ、愛を取り戻させ、神のパラダイスに向かって、一歩また一歩と今日も確かな歩みへと押し出してくださいます。

 

 

2024.9.22 主日礼拝  ■聖書 マタイ28:16-20,コロサイ1:25-28 ■説教題「宣教の目的」

(序)

 ・68年前(1956年・昭和31年)の出来事

  エルヴィス・プレスリー、高倉健俳優デビュー、映画「十戒」公開

・主題「宣教の目的」

 

(本論)

1、「あなたがたは行って」

 16,17節「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。」

 イエス様がよみがえった後、弟子たちは御使いの言葉どおりガリラヤに行き、山に登りました。そこでイエス様に会い礼拝をささげます。「疑う者もいた」とありますが、あまりに不思議な体験だったため半信半疑の弟子たちもいたようです。

 その後、イエス様はご自分の権威によって弟子たちにこう命じられました。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」

 まず「あなたがたは行って」(19)。さあ行きなさい、宣教の時は訪れた、と。

 この場面だけ見ると唐突な感じがしますが、ここに至るまでの流れが大切です。イエス様は十字架の死からよみがえって、罪と死に対し勝利されました(マタイ28:1-6)。十字架は嘆きで終わるのではなく勝利でした。弟子たちも勝利と喜びに与っています。その福音の良き知らせを人々と分かち合うために、ここから遣わされて行くのです。

 またイエス様はいっさいの権威をお持ちです。天の王座に就く方、ご自分の民を一つに集める方。そして、そのために弟子たちを遣わす権威もお持ちです。

 こうして、世界宣教が始まっていきました。

 

 それから時至り、今から68年前、この白山(鶴来)の地でも、ロイ・ジェンセン宣教師が開拓伝道を始められました。当然、言葉や文化の違いがあります。(*ちなみに、私が集っていた教会も宣教師の開拓でしたが、聖餐式の時に、クリームパンを割いたという面白ハプニングもありました。)(*またこの間聞きましたけど、やはり北陸で宣教なさったダビデ・マーチン先生は罵られることもあったそうですが、あるとき、荷車で肥溜めを運んでいる人を見かけて、それを手伝って、後ろから押して上げて、糞尿まみれになったそうです。そのうち、信頼されるようになったそうです。)その他にもたくさんの労苦があったはずですが、やはりイエス様の愛に突き動かされて、福音の喜びを分かち合うためにこの地で仕えられたということでしょう。そうでなければ、遠く日本の地に出かけようなどとは思わないはずです。

 私たちも福音を宣べ伝える弟子として、この時代、この地に主によって遣わされている者たちです。

 「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)

 「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人 

  に、救いをもたらす神の力です。」(ローマ1:16)

 「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」(ローマ10:15)

 

2、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」

 そしてイエス様は弟子たちに、ただ行きなさい、福音を宣べ伝えなさいと命じられただけではありません。「‥あらゆる国の人々を弟子としなさい」(19)と言われます。ここに福音宣教の目的が記されています。それはあらゆる国の人々を弟子とすることです。

 もちろんこれは、私たちが自分自身の弟子をつくるという意味ではありません。(*〇〇兄の弟子をつくるという意味ではありません。○○兄の弟子になったら、使いパシリさせられるとか。いろんな国に、自分の弟子がいたら、楽しそうですけど。なんだか相撲部屋みたいですが。)イエス様の弟子をつくるということです。

 そして、信仰告白や洗礼式が宣教のゴールであると勘違いしていることはないでしょうか。たしかに信じることによって救いに与かることができます。ですが、イエス様がお命じになったことは、信じて洗礼を受けたその人が主の弟子として成長していくことです。

 

 そこで、教会がなすべき弟子づくりの内容が19,20節に語られています。

 ⑴ まずは、父、子、聖霊の名においてバプテスマ(洗礼)を授けることです(19)。罪の悔い改めをもって主イエスを信じ受け入れた人に教会はバプテスマを授けます。

 ⑵ そして教会は、主の弟子となったその人を教えます(20)。20節のように、イエス様が命じたすべてのことを守るように教える。つまり、聖書のみことばと、それを実際に行うように教えるということです。

 ところで、この順番は重要です。ときどき「私はまだまだイエス様の教えを守ることができません、だから洗礼なんて私にはとても無理です」と言う方がいますが、信じて、洗礼を受けることが先なのです。それからクリスチャン(弟子)としての歩みが始まります。

 そして、パウロもイエス様と同じ原理を語っています。

 「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。」(コロサイ人への手紙 1:28)

 使徒パウロは宣教命令をそのとおり実践していたわけです。

 

 このように、教会やクリスチャンは、遣わされた場所に出て行き、福音を宣べ伝えること、さらに信じた人を教えるという使命を担っています。

 同時に、私も含めてクリスチャン一人ひとりの歩みとは、弟子としてさらに成長・成熟するために主の教えを学ぶ、学び続ける歩みであるということです。

 

3、主の教えを学ぶということ

 ⑴ それには、説教をとおして、また日々聖書にふれて、主の教えを学ぶということです。ただし、聞くだけでは半分です。イエス様がおっしゃるように語られたみことばを守ること、つまり日々の生活において実践すること、みことばに生きるということです。

 ⑵また、みことばを学ぶことには、いわゆる「神学」や「教理」を学ぶことも含まれます。たとえば、「罪とは何か」「救いとは何か」「教会はどういう場所か」「どうして礼拝をささげるのか」みことばを体系的に学んでこうした理解を深めるということです。聖書の話を順番に読むだけでなく、体系的な学びと理解。パウロの時代からあった学び方です。わかりやすい例で言うと、洗礼の学びもこういう学びをします。

 ⑶そして、主の教えを学び、実践していくには、身近な模範も必要です。パウロもクリスチャンたちの良き模範でした。また「テモテへの手紙」を見ると、テモテは祖母ロイスと母ユニケをとおして聖書と信仰を学びました。(Ⅱテモテ1:5,3:14,15)。

 (*課題は宣教よりむしろ信仰継承か)

 

 そして主の教えを学ぶことは、一人ひとりと教会全体にとって、大きな祝福であるということも、ともに覚えておきたいのです。

 

 ⑴みことばを学ぶ幸い

 ・深い確信を持つことができます。

 「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい」(Ⅱテモテ3:14)

 信仰が揺さぶられるという試練にあうことがあります。10代の頃はとくに信仰が大きく揺れるかもしれません。揺れることは必ずしも悪いことばかりではありません。信仰を自分のものとするために、時には揺れる必要があります。大切なのはわからないことを、そのままにしておかないことです。

 みことばを学ぶとき、イエス・キリストと出会うとはどういうことか、クリスチャンでいるとはどんなことか、理解していくことができます。

 ・人生を喜んで生きることができます。

 「天地創造」や人間の創造について学ぶなら、「神は何のために人間を造られたのか」という人生の目的を知ることができるでしょう。「罪」について学ぶとき、自分の心や行いが、どうして悪い方にかたむいてしまうのかを知ることができるでしょう。そして「救い」について学ぶとき、神様がどこまでも自分を愛しておられることを知ったり、この神様のお役に立つ人生を歩みたいと、神様の目線で自分を見つめることができるようになります。

 ・愛する人たちに伝えるため。

 みことばを学ぶことで、自分たちの信じている事柄を大切な人に伝えられるようになります

 

 ⑵みことばを学び、行う幸い

 ・みことばを学び、行う人生に幸いがあります。

 「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(マタイ28:20)

 「イスラエルよ、聞いて守りなさい。そうすれば、あなたは幸せになり、」(申命記6:3)

 ・成長、成熟に向かいます。

 「‥すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるた

 めです。」(コロサイ人への手紙 1:28)

 

 (*今日の教会の課題は、宣教よりむしろ学びと成長という指摘もある。)

 

4、「いつもあなたがたとともにいます」

 最後の20節後半をお読みします。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 聖霊なる神が私たちとともにいてくださるという約束です。励ましに満ちたことばです。同時にこれは、私たちが福音宣教や弟子づくりに励もうとする時、ともにいます神のご臨在をいっそう深く覚えることができるということではないでしょうか。(例:「ある夜、主は幻によってパウロに言われた。『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。』」(使徒18:9,10)) 

 私たちが福音宣教や弟子づくりに励もうとする時に、ますます、ともにおられる神が主が私たちを力づけ、励まし、大きなみわざをなしてくださると信じます。

 

(結び)

 私は宣教の使命とともに、さらに主のみおしえを学びたい、みことばとその実践を学んで行きたいと思わさています。近く、聖書講演会もあります。それ以外にも、学ぶ機会をともに持ちたいと願っています。

 宣教68周年を迎えましたが、これからも宣教と主の弟子としての成長に向かって、歩んで参りましょう。

 

 

2024.7.21 主日礼拝 ■聖書 エペソ4:25-5:2 ■説教題「『新しい人』の道徳基準」
 

(序)
 うちの娘は、毎晩寝る前に、妻と一緒に絵本や児童書を読むことを楽しみにしています。
最近のお気に入りは、イギリスの女王エリザベス2世について書かれた本だそうです。
 父親のジョージ6世が即位すると、娘エリザベスは次の王として期待が寄せられるようになります。そこから、「帝王学」と呼ばれる特別な教育が始まりました。国語や算数、歴史などのほかに、年長の王侯貴族と交流したり、ある時は軍隊の活動にも参加しました。こうして、女王にふさわしい教養、態度、考え方を身につけていったそうです。
 
 パウロも今日の箇所で、エペソのクリスチャンたちに、クリスチャンとして、ふさわしい歩みとは、どういうものであるかを教えています。前回学んだように、クリスチャンは、キリストによって以前の「古い人」を脱ぎ捨て、「新しい人」を着た人たちです(4:22-24)。神様から新しい身分をいただき、新しい生き方に導かれています。しかし、エペソのクリスチャンの中には、まだまだこの世的な損得勘定で考えたり、相変わらず自己中心な言動を繰り返したりして、教会内外の人間関係を壊してしまう人たちがいました。そこでパウロは、彼らの具体的な問題を取り上げながら、新しい人としてのあるべき姿を確認していきます。
 私たちも、今朝、自分自身を振り返るとともに、新しい人の生き方を確認し、その歩みへと進ませていただきましょう。

(本論)
1、まず第一番目に、パウロは、「新しい人」の生き方として、何を捨て、何を身に着けるべきか、具体的に確認しています。
 「新しい人」を着たクリスチャンの生き方は、日常生活の中に具体的に表れます。そこでパウロも、具体的な教えを述べています。前回も、所々取り上げましたが、あらためて、くわしく見ていきましょう。
 ①まずは25節「偽りを捨て、真実を語る」ということです。自分の都合で事実を隠したり、ねじ曲げてはいけません。そして嘘、偽り、ごまかしも、隣人を傷つけ、混乱させ、人間関係を壊すことにつながります。語るべき真実を語らず黙っていることも、正しい振る舞いではありません。日本人はとくに和を重んじる文化ですから、真実を語らないということが起こりやすいのではないでしょうか。
 また、パウロはこの勧めの理由づけとして、「私たちは互いに、からだの一部分なのです」と、教会の一体性に訴えています。教会の交わりは、互いに真実でなければ、不和と混乱と問題が起こり、真実であれば、正しく、効果的なものとなります。
 ②26節「怒っても罪を犯してはならない」。「怒り」そのものが悪だと言っているのではありません。イエス様にも見られるように、義憤というものがあります。ただ、私たちの場合、まずその怒りが義憤であることを確かめなければなりません。
 義憤であるとしても、パウロは「憤ったままで日が暮れるようであってはいけません」と賢明な教訓を与えています。義憤でも、長く抱えていると、罪の行いに変わってしまう恐れがあるからです。とくに27節のとおり、悪魔に機会を与えてしまう危険があります。ある人が、「怒ったままというのは、悪魔に対して、心の扉を半開きの状態にするようなもの」と言っていました。憎しみや高慢の心を育てる温床になります。悪魔が働く機会を与えないようにしなければなりません(参考Ⅰペテロ5:8-9)。
 ③28節「盗みをやめ、正しい仕事をしなさい」。「泥棒」の意味にも取れますが、広くは、人を騙して利益を得る仕事、という意味です。クリスチャンになったなら、そのような仕事から離れなければなりません。かわりに、誠実に、骨を折って、働く習慣を身につけなければなりません。
 しかも「困っている人に分け与えるため」とあるように、パウロはクリスチャンたちに、自分のためだけでなく、困窮者の援助のためにも正当な勤労に励むよう勧めています。ですから、汗水流して働いて税金を納めることは聖書的ですし、災害など、いろんな意味で困っている人に施すことも隣人愛の実践です。
 ④29節「悪いことばを避けて、むしろ人の成長に役立つことばを語りなさい」。この「悪い」という言葉(原語:サプロス)は、もともと「腐っている」という意味です。とりわけ、下品な言葉、猥褻な会話を戒めていると思われます。
 それに代わり、クリスチャンは「人の成長に役立つことばを語る」ということです。「成長に役立つ」という言葉は、もともと「建物を建て上げる」という意味で、「隣人を建て上げることばを語りなさい」ということです。このように、クリスチャンの会話の基準は、「私のことばが、聞く人の成長のために役立っているか」です。
 そして、「神の聖霊を悲しませてはいけません」という警告が続きます。聖霊は、単なる力ではなく、人格であられ、悲しまれるお方なのです。神は「愛」であられるゆえ、悪いことばを発したり、隣人を損なうことは、愛なる神の御霊を悲しませることになります。
 ⑤31節は、ここまでの締めくくりのように、日常的な悪をすべて捨て去りなさい、と訴えています。
 ⑥最後に32節をご覧ください。「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい」。親切とは、思いやりをもって相手に接することです。そして「優しい心で赦し合いなさい」とあるように「赦し合う」ことが重要です。誰も完璧な人はいませんので、優しい心で赦し合うことが大切です。また、相手を赦さない、苦々しい心をずっと抱えているなら、親切にすることも、恵みを与えることも、ままなりません。赦すこと、赦し合うことは、そういう意味で基本的なことなのです。
 ここまで、「新しい人」の道徳基準を確認してきました。みなさんの自己点検はいかがだったでしょう。「新しい人」の生き方は、どれくらい自分のものとなっているでしょうか。私たちはこのように、みことばによって、自分の日常の言動をよく吟味することが必要です。
 
2、そして、第二番目に、私たちがこうした新しい生き方を歩めるのは、神様との愛の交わりのうちに生かされているからです。
 ①では、私たちは、どのように、新しい生き方を身につけて行けるのでしょう。まずパウロは、これまで指摘してきたことが、まだ身になっていないとしても、「はい、クリスチャン失格です、さようなら」と切り捨てたりはしません。また、自分の力で克服しなさいとも言っていません。それは律法主義への逆戻りです。
 パウロはむしろ、エペソのクリスチャンたちが、「自分の努力、自分の頑張りで変わらなきゃ」と誤解しないよう、よく注意を払っていたのでしょう。だからこそ、32節で、「互いに赦し合いなさい」と述べた直後に、「神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」と語ったのです。人は、自分の心がけや、努力だけでは、悪を行なった相手をなかなか赦すことができません。だからパウロは、3「神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくだったのです」と、大切な真理に、今一度私たちの目を向けさせるのです。すべてのクリスチャンの赦しの模範、そして赦しの原動力は、神ご自身の私たちに対する赦しです。神様は、あのイエス様の十字架において、あなたを、ただ一度完全に赦されたのです。その赦しの恵みを信じる者は、隣人を、優しい心で赦せるようになっていけるということです。

 ②さらに、パウロは、5章1,2節で「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい」と勧めています(5:1,2)。「互いに赦し合う」だけにとどまらず、もっと広く、神様に倣って、隣人を愛する者になりなさい、と勧めているのです。神様が、キリストにおいて示してくださった愛の模範は、2節のとおりです。やはり、十字架です。キリストは、私たちへの愛ゆえに、神へのささげ物、いけにえとなり、ご自分を十字架にささげられました。そこに、私たちへの愛が、鮮やかに現されています。そのお方のように、私たちも隣人のために生きよう、とパウロは勧めるのです。
 そして、私たちが隣人のために生きる、その模範も、原動力も、先ほどの赦しと同じように、神様との交わりによって得られるものです。それは1節にあるように、「私たちは、父なる神に愛されている子ども」であるということ。神様に「愛されている」、「愛を知っている」ということです。子どもは、親の考え方、言葉、振る舞いを模範とします。私たちも、イエス様と日々交わっているなら、考え、言葉、振る舞いが変えられていきます。また、イエス様の愛に触れられているなら、その愛に心揺り動かされ、自分も同じように、愛する者へと変えられて行きます。だからパウロは言うのです。あなたがたは、神様の赦しを知らない者たちではなく、知っている者たちではないか。神様の愛を知らない者たちではなく、知っている者たちではないか、と。
 ですから、25節から記されている、パウロの勧めも、ただ自分の頑張りで、それを克服するという話ではないのです。あなたがたは、父なる神に愛されている、その愛を知っている。その愛
とともに生きている。だからこそ、人を傷つけ、悲しませるような、偽りも、怒りも、悪い言葉も、無慈悲も、捨てて行けると。代わりに、人の徳となる言葉を語り、あわれみを持ち、困っている人に分け与え、親切と赦しを与えるようになるのだ、と。

(結び)
 先週、奉仕のために来てくださった松元潤先生と、個人的にも、ゆっくりお話しする時間が与えられました。その中で、クリスチャンの成長という話題になりました。そこで先生は、まずは日々、聖書を読みながら、自分の罪にしっかり気づくことが大切と仰いました。神のみことばによって、罪に気づく。へりくだりを持つ。奥様のハンナ先生も、夫の説教を聞いていても、いつも心が探られると言ってましたし、ご自身も「みことばの光」にサムエル記の解説を書きながら、まずだれよりも、ハンナ先生ご自身が、みことばによって心を探られているのです。
 それとともに、神がキリストにおいて、そのような自分を、赦してくださる。そうして、キリストの十字架の偉大さと、神様のあわれみの大きさに、ますます触れるようになります。そして、赦しの恵みをわかるからこそ、自分をわきまえながら、人に優しく接し、赦すことができるということです。隣人を愛する歩みへと進んで行けるということです。尊敬する牧師であり、クリスチャンである松元先生も、成長するために、「努力が必要」とは言いませんでした。神の愛とともに生きることだと。ご夫婦のあの信仰の姿勢、品性も、思いやりも、何よりそうして培われてきたということです。
 みなさんは、新しい人としての生き方を、その幸いを、十分に味わっているでしょうか。示される課題があるでしょうか。新しい人の生き方を学びながら、神様との交わりによって養われ、その生き方を自分のものとして参りましょう。
 

2024.6.9 主日礼拝  ■聖書 エペソ3:14-21 ■説教題「愛を知るための祈り」

(序)

(本論)

1、パウロの祈り   

 14,15節「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。」

 1-13節まで、パウロは異邦人宣教の召しとその使命について述べていましたが、この14節から話の流れを元に戻します。再び「異邦人の救い」(2:11-13)、「神の家族」(2:19)というテーマを念頭に置いて、今度はエペソのクリスチャンたちのために祈り始めます。

 この手紙を書きながら、パウロ自身があらためて、救いの恵みの偉大さに胸が熱くなり、祈りに導かれていったのです。

 

 神様の啓示を思い巡らすことによって祈りに導かれるパウロの姿は、私たちの模範と言えます。私たちは「どう祈ったらいいのかわからない」と思ったり、「神様との豊かな交わりを持ちたい」と願うことがあります。神様の啓示、つまり聖書のみことばを読んだり、思い巡らすことによって、祈りに導かれるということです。

 そして、私たちもパウロのように、神の家族、神の子どもであることを意識して、父なる神様に祈ります。父と子という親しさのうちに、祈りの交わりを持つことができるでしょう。

 また、このときパウロは、ローマの牢獄で鎖に繋がれながら、膝をかがめて祈ったのです。どのような場所も、神聖な祈りの場所に変わります。神殿や教会だけが祈りの場所ではありません。自分の部屋はもちろん、たとえ病室のベッドにいたとしても、私たちは父なる神に祈ることができます。

 

、あなたがたを強めてくださいますように

 では、パウロはどのような祈りをささげたのでしょう。大きく二つの祈りに注目したいと思います。まず16,17節をご覧ください。「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。」

 一つ目の祈りは「父なる神が、御霊によって、あなたがたを強めてくださいますように」という祈りです。

 まず16節に「内なる人」とあります。内なる人とは私たちの内面のこと、心や魂と言ってもよいでしょう。

 父なる神はご自分の霊である御霊を通して「内なる人」に働き、私たちを強めてくださるということです。あくまでも、人間から生じる力ではなく、父なる神が御霊を通して。しかもそれが、内なる人のただ中に届き、その力に満たされていくということです。

 

 17節を見ると「あながたがの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」と記されていますが、これも実は、今お話した御霊の働きを別の表現に言い換えているのです。御霊によって私たちの内なる人が強められることと、キリストが私たちの心に住まわれることは、別々の事がらではなく、同じ事がらです。Ⅰコリント2:16には、御霊を受けた人は「キリストの心」を持っていると記されています。このとおり、御霊はキリストの心をお持ちです。

 

 では、御霊によって強められると、どうなるのでしょう。キリストが住んでくださるとあるとおり、キリストのような強さがもたらされるということです。

 キリストの強さとは、いかなるときでも、父なる神への信頼に堅く立つこと。神のために働くことができる強さ。いかなるときでも愛と義を貫く強さ。試練、困難を乗り越える力などもあるでしょう。 

 さらに、内なる人が強められると聞いて、Ⅱコリント4:16のみことばを思い出す方もおられるのではないでしょうか。「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」。私たちの「外なる人」は衰えていきますが、「内なる人」については生涯にわたり力を与えられ、新たにされていくのです。この約束にも信頼して、自分はもとより、お互いに御霊によって強められるよう祈りをささげていきましょう。パウロが示しているように、祈りが欠かせません。

 

3、キリストの愛を知ることができますように

 そして次に、もう一つの祈りを見ていきましょう。まず17節後半から19節をお読みします。「そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」

 とくに、19節にある「‥キリストの愛を知ることができますように」という祈りです。先ほどのように、キリストは力あるお方ですが、単なる力ではなく、知恵や、励まし、また何よりも愛なるお方です。

 また、当時の状況を考えてみると、ギリシアでは、知恵や知識ばかりが重んじられていました。人々に深い影響をもたらしていたギリシア哲学、グノーシス主義の思想は、知的なものに頼っていました。それもあって、パウロはキリストの愛を知ることを強調したのではないかと思います。 

 私たちに与えられている信仰は愛を抜きにしては考えられません。愛がなければ、イエス様の十字架の贖いもなされませんでした。真の知識も、愛がなければ知ることはできません。そこでパウロの祈りも、愛に焦点が当てられているのです。

 

 まず、エペソの教会について「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた」と呼んでいます。「根ざす」また「基礎を置く」とは植物と建物を思わせますが、エペソの信徒たちはそのように、愛に土台を置いている人々でした。

 ちゃんとキリストの愛が信仰の土台になっていたということです。十字架による愛と赦しが土台になっていたということです。同時に、彼ら自身の行いも、愛に基づくものでした。黙示録にも出てくるように、エペソの教会は、神様と、お互いのことを大切にする教会でした(黙示2:4,5)。

 そしてパウロは、エペソの信徒たちが、さらに深くキリストの愛を知ることができるようにと祈るのです。「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」

 パウロの祈りの目標は、この手紙を読んでいる人々が、さらに深くキリストの愛を知るようになることです。つまり、キリストにどのように愛されたか。どれほど愛されたか。そして、今もなおキリストが愛してくださっていると知ることです。

 

 イエス様の愛は、まず何と言っても十字架によって鮮やかに証されています。十字架の愛を知る、その大きさを知り続けることが大切です。

 イエス様の十字架の死は、すべての人のための身代わりとしての死です。人は皆、神の掟にかなわぬ罪人です。何より、神様の存在そのものを心の中で抹殺し、軽蔑し、否定する心で生きています。そのような私たちを聖書は罪人と呼びます。もし神様がそんな罪人を公平に扱い、正義を行おうとするのならば、すべての人を一瞬のうちに滅ぼすことが公平な判決です。

 しかし、神のひとり子であるイエス様は、私たちを救うためにご自分のいのちを差し出されました。私たちへの愛ゆえです。そこに、愛があるのです。

 そして、よみがえりのイエス様は今も生きておられ、今この瞬間も私たちを愛してくださっています。みことばによって、また日々の出来事や経験を通してイエス様の愛を知ることができます。兄弟姉妹との交わりによってもイエス様の愛を知ることができます。そのように、イエス様の愛の広さ、長さ、高さ、深さを、知っていくということです。

 

 また、イエス様の愛を知るとき、人は変えられます。喜びが与えられます。日本の多くの中高生、大人もそうでしょうが、自分という存在の価値がわからず、悩んでいると言われています。「自分は魅力的ではない‥‥」「自分は面白くないし‥‥」「誰も受け入れてくれない‥‥」。友だちがいたとしても、自分の居場所がどこにもないように思えることもあるでしょう。しかしイエス様の愛を知る人は、自分は愛されている、必要とされているとわかって、喜びが湧いてきます。

 心とともに行動も変わります。キリストの愛を知る人は、その感動によって心動かされ、自らもキリストを愛する者、人を愛する者へと変えられていくからです。かつては迫害者だったパウロが良い例でしょう。また、裏切りを赦していただいたペテロもそうです。

 そして、キリストの愛を知る人は、まだその愛を知らない人と分かち合おうとします。それが宣教であり、伝道です。キリストの愛を知ることは、ますます宣教に歩むための原動力ともなるのです。

 今年に入って、私の甥っ子が洗礼の恵みに与りました。彼はそれから、毎週自分のおじいちゃん、おばあちゃんの家を訪問するようになりました。様子を見に行き、用事があればお手伝いする。自分で決めて始めたそうです。キリストの愛は人を動かします。

 

(結び)

 そして、20節のとおり、パウロが仰ぎ見ているのは、「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方」です。私たちはこのお方に対して祈るのです。ですから、私たちは大胆に祈り願うことができるのです。

 白山に赴任する前、北海道のある先生が「あそこの教会はよく祈る教会ですよ」と教えてくれました。祈りのネットワークによって全国の教会のために祈り、祈った教会にはハガキを出しておられたということです。

 これからも「私たちが願うところをはるかに超えて行うことのできる方」に期待を持ちながら、祈りを絶やさない教会として歩んでいきましょう。今朝のみことばのように、私たちの内なる人が強められ、堅く信仰に立ち続けることができるように。主のために働くことができるように。そして、もっとキリストの愛を知り、愛に生きる者として歩むことができるように。祈りの門は今日も私たちの前に開かれています。

 

2024.5.5 主日礼拝  ■聖書 エペソ人への手紙2:1-10 ■説教題「私たちは神の作品」

 

(序) 

 先日、昔からの友人がわが家を訪ねてくれました。その友人はテレビドラマをよく観るそうなのですが、最近のドラマはタイムリープ、つまり時間を巻き戻してもう一度人生をやり直す、そういう設定のドラマが多いという話でした。

 どうしてそういう設定のドラマが視聴者に受けるのか、なかなか興味深いと思いますが、もう一度、自分の人生をやり直したいという願望を抱いている人が多いということかもしれません。

できるなら、あの時の失敗を取り消したい、あるいは、もっと充実した人生があったはずではないか、と。皆さんは、そう思われたことはあるでしょうか。

 私たちは、過去にさかのぼってもう一度人生をやり直すことはできません。しかし聖書は、人は新しいのちに生まれることができる、これまでとは違う幸いな歩みに進むことができると語っています。

 この2章の大きなテーマは、後半にあるように教会の一致です。しかし、それを語るために、パウロはまず、どの国民もすべてのクリスチャンはキリストによって同じ新しいいのちにあずかっていると語ります。だからこそ、民族や立場を超えた一致が実現されるということです。

 そこで、今朝はまず2章の前半1-10節に注目し、キリストによって神の作品として新しく生まれるとはどういうことなのか、私たちもともに考えていきたいと思います。

 

(本論)

1、新しいいのちに生まれる必要

 まず第一番目に、すべての人は新しいいのちに生まれる必要があるということです。

 1-3節「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

 パウロはまずエペソの信徒たちに対し、かつてのあなたがたは「自分の背きと罪の中に死んでいた者」であったと述べています。

 まずここに「自分の背き」「罪の中」と二つの言葉が並んでいます。「背き」という言葉は、もともとのギリシャ語では「滑る」とか「道から脱落する」という意味があります。また「罪」という言葉は「的外れ」という意味になります。ですから、この二つの言葉は、人間が本来あるべき生き方に失敗していることを表しています。それはつまり、私たち人間を造られた神のみこころ、神の期待から大きく逸れているということです。そうして、自分勝手な欲に従い、ほしいままに歩んでいます。

 

 また、そういう人類を神に代わって支配しているのが、2節の「空中の権威を持つ支配者」、つまりサタンと呼ばれる存在です。

 サタンそのものは霊的な存在であり目には見えませんが、「この世の流れ」つまり、この世界や社会全体の価値観を支配の中に治めています。神のみおしえと異なる歪んだ価値観を人間に植え付け、誤った道に進ませ、神と神の祝福から引き離そうとするのです。

 たとえば、今の社会では、経済至上主義とか科学主義といった価値観が幅を利かせています。経済や科学それ自体が悪いと言うことではありませんが、神様よりもそれにより頼み、神様に目もくれないなら、サタンの思うつぼなのです。ちなみに、ある有名な心理学者が、「現代の人々は科学技術に信頼を置いて、神を自分から切り離しまった。その結果、心の不安が増大していった」と書いていました。まさにその通りでしょう。科学には人生や死の意味について説明することはできないのです。しかし、こうしてサタンは、誤った価値観を社会に浸透させ、巧妙に人を惑わせ、最終的に永遠の滅びへと導きます。

 

 そしてパウロは3節のように、エペソの人々だけでなく自分たちユダヤ人も、かつては肉の欲のままに生き、神の御怒りを受けるべき者でしたと述べています。パウロ自身、筆を走らせながら、かつての悲惨な自分を思い起こしていたでしょう。しかしそれはまた、パウロやエペソ人、ユダヤ人だけでなく、キリストを知らないすべての人の現実であるということです。

 

2、新しいいのちに生まれる出来事

 第二番目に、人はキリストによって新しいいのちに生まれることができるということです。

 4-6節「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」

 パウロはここで、喜びをもって高らかに宣言しています。「神は‥背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。」

「生かす」という言葉は、ギリシャ語では「いのちをつくる」という意味になります。神はキリストによって新しいいのちを与えてくださいます。

 そしてこのところから、3つのことを確認したいと思います。まず一つ目に、神様が私たちを救い、新しいいのちに生まれさせてくださるのは、大きな愛のゆえであるということ。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」(4,5)。改革者カルヴァンも「愛のみが神を動かした理由である」と書いています。私たちが、罪や汚れにどんなにまみれても、その心や行いにおいて罪深く、汚れていても、父なる神様は私たちを愛し、待っておられます。神様をののしったり、逆らったことがあったとしてもなお、神様は私たちを愛し、ひとり子のイエス様さえ惜しまず、犠牲とし、私たちを生かしてくださいます。

 二つ目に、新しいいのちに生まれることは恵みの賜物です。「あなたがたが救われたのは恵みによるのです」(5)。恵みとは対価や報酬と違い、ふさわしくない者に与えられるものです。 

 そもそも私たちは「自分の背きと罪の中に死んでいた者」であって、自分で自分を救うことはできません。水の中で溺れている人が自分を助けられないのと同じです。あるいは、罪の赦しと救いを得ようと善い行いを積み上げようと言っても、結局は悪い行いばかり積み上がってしまうのが私たち人間の姿です。

 でも、だからこそ、神様は愛とあわれみのうちに、ただ恵みによって私たちを新しいいのちに生まれさせようとしてくださるのです。

 また、すべて神様の恵みであるということは、9節のように誰も誇ることはできないということです。

 そして、三つ目に、新しいいのちに生かされるとは、キリストとともに生かされるということです。「キリストとともに」「ともに」と言う言葉が何度も繰り返されてますが、私たちは信仰によってキリストと結びついて、キリストとともにあります。ですから、キリストに起こったことが私たちにも起こるということです。

 死からよみがえったキリストとともに、私たちは新しいいのちによみがえりました。キリストが天の御座に座られたように、私たちの永遠のいのち、国籍も、すでに天の御国に置かれています。私たちのいのちは、世がもたらす限界のもとにあるのではなく、すでに永遠の御国に置かれていますこうして、私たちはキリストとともに生かされています。ですから、使徒信条を読むときにも、キリストについて告白しながら、私たちはそこに、ともに生かされている自分自身を重ねることができます。

 

3、神の作品として良い行いに歩む

 第三番目に、新しいいのちに生まれた私たちには、神の作品として良い行いに歩むという目的が与えられています。

 10節「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」

 パウロは、新しいいのちに生まれた自分たちを、キリスト・イエスにあって造られた神の作品と表現しています。これはどういうことを表しているのでしょうか。創世記にあるように、人は最初から神様によって創造されたわけですが、しかし、その神の創造が罪によって破壊されてしまったので、神がご自身による新しい創造のわざを開始されたということです。

 そして、神の作品として造られた者たちには生きる目的があります。花瓶は花を活けるためにあります。ピアノは美しい音楽を奏でるためにあります。神の作品として造られた者たちは「良い行いをするために‥造られたのです」。

 さらにパウロは、「神は、‥その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」とも記しています。これはどういう意味でしょう。「5月5日(日)廣岡拓朗はゴミ拾いをすることになっている」そんな良い行いが、すべて、あらかじめ備えられている。おそらく、そういう意味ではないと思います。これは神の作品とされた者たちが、「良い行い」ができるように、あらかじめ、その知恵とか歩みの性質、方向性も、神様が最初から備えてくださっているということでしょう。 

 また、行うための力も神ご自身が与えてくださいます。私たちが自分で頑張ったり、自分の努力でしようというより、神様との交わりを持ちながら、神様に依り頼む中で、良い行いに歩んで行けるということです。歩まずにはおれなくなるのです。

 

 では、パウロの言う良い行いとは具体的にどういうものなのでしょう。これは単に道徳的に「良い行い」という意味ではありません。道徳の授業ではありません。父なる神のみこころに沿った行いのことです。神様に喜ばれることです。ですから、礼拝や賛美も良い行いです。

 そして、もちろん、聖書に書かれている神の教えに従うことも良い行いです。先週の聖書日課は出エジプト記でしたが、20章には有名な十戒がありました。また、パウロはこのエペソ書2章の後半で民族や立場を超えた一致について述べていきます。良い行いにはこうした目的があります。あるいは、4章以降を見ていくと、私たちの日常生活にかかわる具体的な教えが述べられています。夫婦や親子関係についても教えられています(5:22-33、6:1,2)。

 かつては背きと罪の中に歩んでいた者が、新しい創造によって、神の作品として生まれたことによって、良い行いに歩むようになる。罪や肉の欲の奴隷だった者が、その奴隷状態から解放され、自由にされ、良い行いに歩むようになる。以前は考えもしなかったことを考えるようになり、しようとも思わなかったことを進んでするようになります。誰かを傷つけていた言葉は、誰かの傷をいやす言葉となります。かつては、品のない、はずかしい言動をしていたとしても、キリストにあって気高い香りを放つようになります。うらみ、にくしみが、赦しの心や言葉に変わっていきます。それが、パウロやエペソのクリスチャンに起こったこと、そしてキリストによって新しいのちに生まれたすべての人に起こることです。

 

(結び)

 先日、星野富弘さんが天に召されたというニュースが飛び込んできました。ご存知のとおり、星野さんは中学校の体育教師になって二ヶ月後に、宙返りに失敗して骨髄損傷の重傷を負いまし た。奇跡的に命を取りとめたものの、肩から下が麻痺して重度の障がい持つようになりました。一度は人生に絶望した星野さんですが、やがて、自分の命が神に生かされている命であることに気がつき、クリスチャンになりました。

 星野さんを思うときにも、神の作品として新たに生まれ、良い行いに歩めることの素晴らしさと希望を教えられます。自分の人生に絶望し、人生を呪った星野さんが、キリストによって神の作品として新たに生まれたとき、今度は、その描く絵と詩の言葉によって、実にたくさんの人の人生を支えて行くことになりました。人をなぐさめ、励ますという良い行いに歩み続けられました。

  「わたしは傷を持っている。

   でもその傷のところから、あなたのやさしさがしみてくる。」

 

 私たちも神の作品として、良い行いに歩むよう日々導かれています。これまで、どのような良い行いをさせていただくことができたか、振り返り、感謝をささげてみてはいかがでしょう。また、今の自分にとって、神様に喜ばれる良い行いとは何をすることであるか、考えてみてはいかがでしょう。

2024.3.31 主日礼拝(イースター)  ■聖書 ルカ24:13-27 ■説教題「心燃やされるイースター」

(序)

 今年もイースターを迎えましたが、ディズニーランドや、大阪のUSJではこの時期イースターのイベントがあるそうです。USJのホームページを見てみると、「ユニバーサル・イースター・セレブレーション」「究極ハッピーで底抜けにかわいい、イースターの祭典へようこそ!」いったい何事だろういう感じですが、楽しく賑やかにやっているみたいです。今の若い子たちは、イースターといえばUSJだと思っているのではないでしょうか。イースターは教会のものですから、誰より私たち教会が、喜び、祝いたいと思います。

 ただ、今から2,000年前に起こったイースターは、喜びよりも戸惑いや疑いから始まったのをご存知でしょうか。イースターは、十字架で死なれたイエス様が墓の中からよみがえられた出来事ですが、最初に駆けつけた女性たちや弟子たちも、すぐには信じられませんでした。今朝の箇所に登場する二人の弟子たちも、やはり最初は戸惑いと疑いの中にいました。 

 今日もイースターについて、色んな人が色んな考えを持っているでしょう。イースターの意味や、その喜びをすでに分かっているという方もいれば、まだよくわからない、信じられないという方もいるかもしれません。それはそれでもっともなことかもしれません。イエス様の弟子たちだってそうだったのですから。しかし、今日の箇所を通して、弟子たちに起こった変化を知っていただきたいと思います。そして、同じような変化は私たちにも起こるものであるということをともに覚えたいと思います。

 

(本論)

1、近づき、ともに歩くイエス

 13-16節「ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」

 イエス様がよみがえったその日、墓が空っぽになっていて女性たちが驚いたその日のこと(1-12)、二人の弟子がエルサレムから六十スタディオン(11km)離れたエマオの村に向かっていました。話し合ったり論じ合ったりしていたというのは、やはり、墓が空っぽになったそのなぞについてでしょう。また、17節には、二人は暗い顔をしていたとありますので、イエス様が死なれたことにとてもがっかりして、悲しみと失望のうちにエルサレムの町を離れようとしていたのでしょう。しかし、そこへなんと、よみがえったイエス様ご自身が近づい来て、この二人の弟子と一緒に歩き始められたということです。

 となれば、この二人の弟子は無茶苦茶驚いた、また喜んだと思うのですが、そうではありませんでした。「二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった」(16)。二人がイエス様だとわからなかったのは、イエス様の外見が変わったからというよりも、彼ら自身の目がさえぎられていたためだと書かれています。目がさえぎられていた。つまり、復活のイエス様に対する彼らの信仰の目、心の目がまだ開かれていないということです。だから、イエス様がすぐそばにても分からなかったのです。

 

 そして、17,18節「イエスは彼らに言われた。『歩きながら語り合っているその話は何のことですか。』すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。『エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。』」

 「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」もちろん、イエス様は何のことか分かっていますから、あえて彼らに尋ねたということです。するとクレオパは「エルサレムに滞在していながら、‥あなただけがご存じないのですか」と驚き、呆れすます。(それにしても、張本人であるイエス様に対し「あなただけがご存知ないのですか」は滑稽な話です。)イエス様はさらに「どんなことですか」と尋ます(19)。すると二人は19節からあるように、自分たちが見聞きしてきたことをありのまま説明します。

 彼らも他の弟子たち同様に、イエス様を尊敬し、期待を抱いていたが、祭司長たちが中心となってそのお方を引き渡し、十字架につけてしまった。ところが、それから三日目となる今日の朝、女性たちが墓に行くとイエス様のからだは消えていた。さらに、女性たちは御使いたちの幻を見、イエス様は生きておられると御告げを聞いたと言う。

 しかし、二人の弟子は事態を飲み込めていませんでした。イエス様の十字架の本当の意味もわかっていませんし、復活についても半信半疑です。

 今日も同じではないでしょうか。イエス様の十字架と復活について、二人の弟子と同じように、いまいちわからなかったり、半信半疑という人もいるでしょう。

 ただ、私たちがイエス様の死と復活の真実を知りたいと願い求めるなら、この箇所のように、イエス様は私たちのもとに近づいて来てくださるということです。そして、同じ歩幅で歩きながら、私たちの理解に応じて、ふさわしい導きを与えてくださいます。

 ある人がこの箇所を読んで「イエス様はカウンセラーだ」と言っていましたが、たしかにそうだと思います。イエス様は一方的に語られるのではなく、相手の考えに耳を傾けられます。そのため、イエス様と向き合う人は、自分の考えやこれまでの経験と改めて向き合うようになります。そこで、自分の考えが整理されたり、何がわかっていて、何がわかっていないのか、それも見えてきます。

 

2、開かれる聖書

 さて、二人の弟子が語り終えると、今度はイエス様が語られました。ここから、具体的な導きが始まります。25-27節「そこでイエスは彼らに言われた。『ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。』それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。 」

 イエス様は、彼らの心の鈍さが問題だと言われました。さらに具体的には、聖書で教えられていることを、二人が理解していないことが問題なのだと。聖書も、預言者たちも、明確に語っていたけれども、彼らにはそれが何を意味しているのか分かっていなかったということです。

 イエス様の苦しみは、聖書の預言書に記されていたので起こらなければなりませんでした。それからイエス様は「栄光に入る」のです。死や悪に打ち負かされていません。苦難をとおして勝利するのです。

 そして、イエス様は、「ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに解き明かされた。」どんな解き明かしをなさったのか。興味深いですね。モーセとありますから、最初の創世記や出エジプト記から始まったのですかね(例:原福音、アブラハム契約、奴隷からの解放)。また、十字架に関する預言といえば、やはり、イザヤ書53章が思い出されます。同時に、旧約聖書全体がイエス様の十字架と復活に向かって進んでいたと言えますから、旧約聖書全体に貫かれている、父なる神の目的、計画について、解き明かされたということでしょう。

 旧約聖書とイエス様との繋がりを知ることは驚きと発見に満ちています。鳥肌ものです。イエス様の十字架と復活を頂点とした神様の壮大な計画、壮大なみわざに圧倒されて鳥肌が立つほどです。最近、ユーチューブなどで漫画やアニメの考察動画が流行っているみたいですけど、聖書はまさに、創世記から黙示録まで壮大な伏線回収がなされていくわけです(例:いのちの木、イサクとイエス、出エジプトと救い、イエスの初臨と再臨、等々)。しかも、これはフィクションではなく現実の出来事なのです。

 

3、開かれる目、燃やされる心 

 さて、聖書の解き明かしを聞いていた二人の心には変化が生じていました。彼らの心はその話に惹きつけられていました。イエス様は「もっと先まで行きそうな様子」でしたが、二人が強く勧めたので一緒に泊まることになりました。

 すると、不思議なことが起こります。一緒に食卓につき、イエス様がパンを裂いて二人に渡すと、なんとそこで彼らの目が開かれ、目の前にいる方が復活のイエス様だと分かったのです。同時にイエス様の姿は見えなくなりました。

 パン裂きといえば、聖餐式が思い出されますが、ただ、パンを食べたわけではありませんし、ぶどう酒もありませんので、聖餐式とは関係がないかもしれません。あるいは、イエス様の手にある釘の痕をここで初め見たのかもしれません。あるいは、これがちょうど神様の時だったのでしょう。

 ここでまず重要なことは、「彼らの目が開かれ」た。とくに、受け身で書かれていることです。目とは心の目、信仰の目。そして、それはあくまでも、イエス様の働きかけによって「開かれる」ものなのです。

 同時に、信仰の目はイエス様との交わりと聖書のみことばによって開かれるということです。この一連の出来事は、信仰の目はイエス様との交わりと聖書によって開かれるということを表しているのです。もちろん、聖書が大事なのですが、同時に、イエス様のお働きがなければ、信仰の目は開かれません。逆を言えば、聖書のみことばがあり、求める心があるならば、イエス様が働かれ、導きを与えてくださり、信仰の目は開かれるということです。

 そして、弟子たちはイエス様との交わりを振り返ってこう語るのです。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

 ここまで一緒に歩いて、聖書を解き明かしてくださったのも復活のイエス様だった。その解き明かしは十字架と復活の真実を明らかにし、私たちの心は燃やされた。イエス様の臨在とみことばによって、もはや暗い顔つきは消え去り、彼らの心は内に燃えていました。

 

(結び)

 よみがえりのイエス様は、今日も生きておられます。目には見えなくても、私たちのそばにおられ、親しい交わりのうちに、また聖書のみことばを通して、十字架と復活の真実、その恵みを教えてくださいます。イエス様の十字架は私たち罪人の身代わりとての死であり、復活はイエスご自身とともに、私たちもまた新しいいのちに生まれ変わるということ。

 それはまた、罪ある者たちを何としてでも救おうとなさる、神様の深い愛と熱心を覚えることでもあります。また、永遠のいのちの希望を覚えることでもあります。ですから、聖書を知ることは神様を知ることですが、同時に、自分自身を見出すことなのです。罪赦される平安、救われる喜び、神様に愛される喜びを知るからです。人生の意味や喜びを獲得することだからです。だから、心は感動し、燃やされるのです。

 

 先週、東京で行われた教団総会に出かけてきました。N教会のN・Y先生と一緒に書記の奉仕をしました。先生は牧師になる前、ある有名な外資系の銀行で働いていたそうです。それがどうして牧師になったのかというと、イエス様の十字架と復活を頂点とする聖書の壮大さを知ったからだということでした。創世記から黙示録まで貫かれている神の愛。壮大なご計画とみわざ。それに圧倒された、と。もっと聖書の勉強がしたくなってイギリスに留学し、牧師になった、と。心が燃やされたわけです。お給料は前の職場よりもだいぶ少なくなったと思いますけど、今牧師をしていて充実していると仰っていました。みことばによって、心が燃やされているわけです。

 私たちがイースターの意味を、その恵み、喜びを知ろうと願い求めるなら、イエス様は近くにおられますから、聖書のみことばの真理と、親しい交わりのうちに、私たちの目を開いてくださるのです。また、その真理によって、私たちの心を燃やしてくださるのです。

 

2024.2.18 主日礼拝  ■聖書 Ⅰサムエル29:1-11 ■説教題「主は生きておられる」

 

(序)

 今日もご一緒に礼拝ができますことを感謝いたします。今朝はⅠサムエル29章から、「主は生きておられる」という題でみことばを取り次いで参ります。  

 

(本論)

1、板挟みの苦しみ

 27章で見たように、サウルから命を狙われていたダビデは、悩んだ末にイスラエルを離れてペリシテ人の地へ逃亡するという決断をしました(27:1)。

 イスラエルとペリシテは敵対関係にありますから、普通入って行くことはできませんが、ダビデはペリシテの王アキシュに対し、自分たちはサウルと対立する反乱軍だと信じ込ませ、亡命に成功します。さらには、アキシュの好意を得て、ツィクラグの土地まで与えられたのでした(27:5)。

 しかし、そこから、アキシュをだまし続ける苦しい日々が始まりました。実際のところ、ダビデは、反乱軍でもなければサウル暗殺を狙っているわけでもありません。身を守るため仕方なく逃れて来たにすぎません。でも、それを悟られるわけにはいきませんので、ダビデは南の方にある町や村を襲って略奪をし、さもイスラエルの町や村を襲って来たかのように見せかけていました。そうしてアキシュをだまし続け、信用を得ていきました(27:8-12)。

 

 しかし、この29章でついに恐れていた事態が起こったのです。1,2節「ペリシテ人は全軍をアフェクに集結し、イスラエル人はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いた。ペリシテ人の領主たちは、百人隊、千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュと一緒にその後に続いた。」

 ペリシテとイスラエルの間で、再び戦争が始まろうとしていました。ペリシテの連合軍がイスラエルに向け進軍を開始しました。そこでダビデも、ペリシテ軍の一員としてイスラエルと戦うようアキシュから要請を受けたのです。

 拒否することはできません。拒否すれば今までの信用が失われます。かといって、サウル、ヨナタン、イスラエル軍と戦うわけにもいきません。ダビデは窮地に陥ります。

 嘘をつけばやがて自分の首を絞めることになります。もちろん、ダビデの場合は止むを得ない事情がありましたが、嘘をつけば自分の首を絞めることになるというのは一つの真理です。そういう意味でも、自分のことば、振る舞いについて、嘘がないこと、誠実であることを日々心がけていきたいと思います。

 

 また、ダビデはペリシテ軍と一緒に戦うことを求められたわけですが、ただ身を寄せるだけならまだしも、深い協力を求められるとなれば、ペリシテ人は手を組むべき相手ではありません。

目的も利害も異なる相手だからです。

 ところで、Ⅱコリント6:14に、「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません」というみことばがあります。つまり、心を合わせて働く共同の事業とか、本当に深い交わりを、クリスチャンがクリスチャンでない方と共に行うのは無理であり、危険であり、ふさわしくないという、パウロの勧告です。

 たとえば、能登ヘルプの働きも、教会だけでなく、一般企業、NPO法人、いろんな方々と協力をしますが、世話人会、リーダー、あるいは組織としての意思決定は、クリスチャンが担わなければなりません。神のみわざが実現し、キリストの愛が届けられるためです。

 

2、深い信頼

 さて、窮地に追い込まれたダビデですが、しかし、思いがけないところから、これを打開する

機会がやって来たのです。3-5節「ペリシテ人の首長たちは言った。『このヘブル人たちは、いったい何なのですか。』アキシュはペリシテ人の首長たちに言った。『確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいる。私のところに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。』ペリシテ人の首長たちはアキシュに対して腹を立てた。ペリシテ人の首長たちは彼に言った。『この男を帰らせてほしい。あなたが指定した場所に帰し、私たちと一緒に戦いに行かせないでほしい。戦いの最中に、われわれに敵対する者となってはいけない。この男は、どのようにして自分の主君の好意を得るだろうか。ここにいる人たちの首を使わないだろうか。この男は、皆が踊りながら、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌っていたダビデではないか。』」

   ペリシテ人の首長たちは、隊列の後にダビデとその兵士たちがいるのを見て、「このヘブル人たちは、いったい何なのですか」と不満を覚えました。 それが「イスラエルの王サウルの家来ダビデ」だと聞いて首長たちはさらに苛立ちを覚えます。アキシュはダビデを信用し何の疑いも抱きませんでしたが、他の首長たちには受け入れられません。理由は単純です。ダビデはあくまでもイスラエル人であり信用できない。戦いの最中、いつ裏切るかもわからない。14:21にあったように、ペリシテ軍はすでに苦い経験をしていました。そしてダビデといえば、かつてペリシテ軍に手痛い敗北をもたらし、歌にまでなった、サウル以上の優れた将軍。そんな者を連れて行くなど危険極まりない、と。

 一方アキシュはダビデを擁護しています。「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいる。私のところに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。」

 深い信頼を寄せていることがわかります。アキシュは、首長たちのことばに反発するほど、ダビデを信頼しています。しかし、首長たちの抗議も、もっともといえばもっともであるし、亀裂が生じるのも得策ではない。

 そこでアキシュは、6,7節のとおり、ダビデに理解してくれるよう説得します。「主は生きておられる。あなたは真っ直ぐな人だ。あなたには陣営で、私と行動をともにしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、あなたには何の悪いところも見つけなかったからだ。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。だから今、穏やかに帰ってくれ。ペリシテ人の領主たちが気に入らないことはしないでくれ。」

 アキシュにすれば、ダビデに対しわびる思いがあったでしょうが、ダビデにすれば心底ほっとし胸をなで下ろす思いだったでしょう。

 

 ところで、アキシュは「主は生きておられる」と、意外なことにイスラエルの神を持ち出しています。ただ、これはアキシュがイスラエルの神を信じていたというわけではなく、ダビデに対する一つの礼儀として述べたものと思われます。

 とはいえ、「あなたは真っ直ぐな人だ」、さらに9節「私は、あなたが神の使いのように正しいということをよく知っている」、これらの言葉にあらわれているように、アキシュがダビデを最大限評価し、深い信頼を寄せていたことは間違いありません。

 実際は、ダビデはアキシュを騙していたわけですから、嘘によって作られた関係であることは否めません。ただ、ダビデは、確かに誠実な人間です。止むを得ず嘘をついたこと以外は、アキシュに対して本当に誠実だったのでしょう。いのちをねらわれながらも、あのサウルに忠誠を誓うダビデの誠実さは、アキシュとの交流においても発揮されていたのでしょう。

 またアキシュは、ダビデの誠実さはダビデの信じる神にかかわりがあると感じていようですう。私たちの歩みも、周囲からそう思われるものでありたいと願います。

 

3、生ける神の見えざる手

 8-11節「ダビデはアキシュに言った。『私が何をしたというのですか。あなたに仕えた日から今日まで、しもべに何か過ちでも見出されたのですか。わが君、王様の敵と戦うために私が出陣できないとは。』アキシュはダビデに答えて言った。『私は、あなたが神の使いのように正しいということをよく知っている。だが、ペリシテ人の首長たちが「彼はわれわれと一緒に戦いに行ってはならない」と言ったのだ。さあ、一緒に来た自分の主君の家来たちと、明日の朝早く起きなさい。朝早く、明るくなり次第出発しなさい。』ダビデとその部下は、翌朝早く、ペリシテ人の地へ帰って行った。ペリシテ人はイズレエルへ上って行った。」

 ダビデは役者ですね。信用されないのも、出陣できないのも、納得できない、と。あんまりやりすぎると、「やっぱり出陣してもらおうか」となってしまいますから、さじ加減は難しいところです。

 それはそうと、ダビデとその家来たちは、最終的にアキシュの指示によって、ツィクラグヘと帰ることになりました。

 

 神様はあわれみ深い方です。29章には神様の働きがあったとはっきり書かれているわけではありませんが、神様はペリシテの首長たちの疑い、不満を用いて、ダビデがサウルやイスラエル軍と戦う必要がないように守られたのです。また、次の章を先取りすると、実はこの時、アマレク人によってツィクラグが襲われ、ダビデや家来の妻たち、子どもたちが連れ去られていたのです。もし、このまま戦いに上っていたら、妻や子どもたちを救出することは出来なかったでしょう。

 アキシュは「主は生きておられる」と言いました。それは、ダビデに対する一つの礼儀として述べた言葉かもしれませんが、しかし、文字通り「主は生きて」おられるのです。この出来事の背後にあって、生ける神の見えざる手が働かれダビデを守られました。

 

(結び)

 ダビデはかつて、このペリシテの地を「神の御顔から離れた地」と呼んだことがありました。けれど、神はダビデを離れずともにおられました。そこがどのような場所でも、どんな窮地に追い込まれたとしても、神の守りの御手が届かぬ場所はない。打開する道は与えられる。ダビデはあらためてそれを知ったのです。

   ダビデは嘘もついていましたが、たとえ自分の弱さ、失敗、罪があったとしても、神様のあわれみは決して閉ざされることはありません。もちろん罪をよしとすることはできませんが、しかし、神様は、赦しの神、あわれみの神、助けの神であられます。

 これまで、どのように神様に守られて来たでしょうか。八方塞がりの中で、ある人、ある出来事によって、それを打開できたということがあるのではないでしょうか。背後で、神さまの御手が働いておられたのです。

 毎晩、その日の出来事を振り返り、神様の守りを覚えることもできるでしょう。「夕べの祈り」というとカトリックの印象が強いですが、私たちにとってもためになるものです。

 「天の父よ、わたしたちは御守りと御恵みのうちに今日一日を過ごすことができたこと感謝いたします。私たちを支えてくれた人たちに神様の恵みがありますように。」

 そうして、神様の守りを覚える。それはまた神様の愛を覚えることでもあります。そして、私たちも神様を愛し、また新しい日にも期待を持って歩みだすことができるのです。 

 

2024.1.7 主日礼拝  ■聖書 ルカ10:25-37 ■説教題「隣人となる」

(序)

 今日は予定を変更し、ルカの福音書10章を開きました。「良きサマリア人のたとえ」と呼ばれている箇所です。この箇所における一つのテーマは、「隣人を愛する」ことです。今まさに、私たちの身近な地域、身近な人々が震災によって傷み、支援を必要としています。この状況の中で、私たち教会はどう在るべきなのでしょう。

 

(本論)

1、良きサマリア人のたとえ

 まずは25節。ある律法の専門家がイエスさまを試そうとして、永遠のいのちに関する質問をいたします。これがきっかけとなり、「隣人を愛する」というテーマへと話が進んで参ります。とくに、自分が愛するべき隣人とは誰なのか。隣の家に住んでいる人?いや、それ以上のことであるというのはわかっている。でも、どの範囲まで愛するべきなのか。これについては、ユダヤ人の間でも考え方に違いがありました。イエスさまは「良きサマリア人」のたとえを語り、愛すべき隣人とは誰のことであるか示して行かれます。

 

2、隣人となる

 30-33節。ある人がエルサレムからエリコへと下って行ったが、その道中、強盗に襲われ、瀕死の状態になってしまった。するとそこへ、たまたま、祭司が一人通りかかった。しかしその祭司は倒れた人を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じように、後から来たレビ人も、反対側を通り過ぎて行った。

 祭司とは、神さまに仕える者、礼拝を司る者。民を教えたり、指導する立場です。レビ人も、祭司と一緒に奉仕する者たちです。しかし、そのような彼らが、倒れた人を助けることなく、通り過ぎて行った。理由は書かれていませんが、儀式的な汚れを負いたくなかったのかもしれません。あるいは、強盗が戻って来るかもしれないと考えたのかもしれません。いずれにしても、苦しんで、助けを必要としている人がいたのに、祭司、レビ人はその人を置き去りにしました。

 

 しかし、33節からあるように、後からその道を通ったサマリア人は、瀕死の状態で倒れていたその人をあわれみ、助けの手を伸べます。33,34節「ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。」

 先ほどの祭司、レビ人とは対象的に、このサマリア人は、その人を見て「かわいそう」に思い、近寄って助けます。「かわいそうに思う」、何よりその心が愛のわざの動機となりました。

 そして36節のイエスさまの言葉をご覧ください。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」隣人とは、ただ隣の家に住む人とか、同じユダヤ民族とか、そういうことで線引きされるものではない。自分から、助けを必要としている人の隣人となっていく。自ら、隣人になっていくということです。

 この度の震災によって、痛み、傷ついている方々が、能登地方、石川県、この北陸の地におられます。私たち教会は、その方々の隣人とならせていただきたい。まず、そのような祈りをささげたいと思います。

 私たちのうちにも、「かわいそうに思う」あわれみの心があります。しかし、私たちのあわれみと愛は、不完全であることも事実です。一時的であったり、見返りを求めたり。ですから、イエスさまのようなあわれみの心を私たちにも与えてください。これらの祈りをささげていきたいと思います。

 

3、愛と犠牲の奉仕

 続いて、サマリア人の愛のわざに注目してみましょう。もう一度34節、続けて35節もお読みします。「そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」

 「オリーブ油」は痛み止め、「ぶどう酒」は消毒薬。このサマリア人は旅行者として、これらを携えていたのでしょう。「家畜」はろばからくだと思われますが、それに倒れた人を乗せ、自分は歩いて進みました。そうして宿屋に連れて行き、自ら介抱します。

 そして次の日、彼は二日分の給料に相当するデナリ二枚を宿屋の主人に支払います。宿泊費としては高額ですが、「介抱してあげてください」とあるように、宿屋の主人に介抱を頼むため、多く支払ったのでしょう。さらに、「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」。もっと多くの費用をかかったならば、自分が帰りに返済するとサマリア人は約束しました。最低限の助けというのではなく、犠牲を払いつつ、さらに残りの治療も考えながら、出来る限りのことをしました。

 

 今、私たちが置かれている状況は、このサマリア人と全く同じではありません。怪我人や被災した方が、すぐ目の前にいるわけではありませんし、規模も違います。ですが、この人のあり方に倣って、私たちに求められる愛と犠牲の奉仕をささげたいと思わされます。

 まず、教会は祈ること。祈り続けることが大事でしょう。そして、怪我人や病人の救援は国や県が主導して行なっていますので、それらの支援がスムーズになされるため、出された指示に従い、協力をすることが必要でしょう。

 

 また、被災した方々の必要を知り、今できることを精一杯させていただけたらと思います。この後、報告の時に改めてお話しますが、一昨日の金曜日、内灘聖書教会で緊急の牧師会が開かれ、「のとヘルプ」(仮称)という超教派の支援団体を立ち上げることとなりました。献金の受付を開始することが決まっています。また、昨日同盟教団からも緊急支援募金を募るとの連絡がありました。まず、これらの団体を覚え、献げることが、具体的な支援に繋がって行くでしょう。サマリア人もそうでしたが、やはり治療や支援のためには資金が必要です。

 

 同時に、支援活動そのものは間違いなく長期的なものになります。被災者や被災地のニーズも段階とともに変わって行きますので、それも念頭に置く必要があるでしょう。

 

 また、良きサマリア人の行動を改めて見てみると、彼も自分一人ですべてを行なったわけではありませんでした。宿屋の主人にも介抱を依頼しました。私たち一人ひとりも、牧師も、教会としても、単独で抱え込むのではなく、役割や負担を分担することが大切でしょう。活動が長期的になれば、なおさらです。

 

 そして、このサマリア人は、「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」と、最低限の助けではなく、残りの治療も考えながら、できる限りの関わりをしました。あの東日本大震災のとき、三年を一つの区切りとして、多くの企業や団体が被災地支援から撤退していったそうです。しかしキリスト教会やその団体の中には、三年過ぎた後も活動を継続した働きがいくつもあった。被災者の方々から、「教会さんは留まってくれた」そんな声も上がっていたと聞きます。尊いわざであると思いますし、何より神さまの愛のわざです。そのような、支援を必要としている方々に寄り添い続けるような関わりを、もちろん私たちの力だけでは不可能ですが、北陸の地域教会、また教団などと協力して、何より、神さまの愛と力、御助けに依り頼みながら、おこなっていくことができたらと願います。

 

(結び)

 イエスさまは、「良きサマリア人」のたとえを通して、だれが「隣人になった」だろうか。そう問われました。お祈りをいたしましょう。

 

 

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